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日記(昭和5年)

ID
jihi285
目録番号
自筆285
資料名
日記(昭和5年)
作者
南方熊楠
材質
洋紙、墨/表紙、茶/洋綴
保存状態
大見出し
自筆資料
小見出し
日記
訳者・編者
巻冊
1冊
装丁
刊行者
刊行地
刊行年
1930
初版年
ページ数
12+416+32+10頁
サイズ
19.6×12.8
日本語名
書入れ
備考1
博文館当用日記 新聞切抜貼付
備考2
【翻刻1】◇六月一日(日)/〔天気〕晴 夕曇 夜中より雨 〔寒暖〕やや暑 又むせる/〔右欄外〕此日神島天然紀念物保護の指定を県庁より受く、(六月四日紀伊毎日の三頁)/〔本文〕午前五時半後、怪しき女来り庭に立つを叱すと夢み、松枝に呼れさむる、それより又少眠、杉山菊病臥しあると見てさむれは八時也 起る 少時して自働車にて田上次郎吉氏来る予食事の間毛利氏へ自働車にて走りゆく、九時頃二人つれ来る、予腹下り不快ニ付前発しもらふ、十時二十分予自働車にて(平日新庄村迄三十銭なるに、今日は一円八十銭)新庄小学校にゆく、榎本宇三郎氏来り迎へ控え室に入る、毛利氏演説最中也(凡そ一時間にしてすむ)、それより聴衆等控え室前を過ぎ予を見る、それより別教室の二階に上り、毛利氏、田上氏とになる内、空場にて餅なげ(二俵といふ)始まる、それすみて一同去る、件の二階にて折肴を食ひ話す、十二時学校を出、歩して入海の北端に至り乗船、六七十人のる(岩本金兵氏も学校に来りあり、挨拶に来りしが乗船はせず)、神島に着しが干潮にて船(機関荷船)大なる故、渚近く寄せ能はず、高き岩磯によせ踏板を高く架し、手を引れて辛ふして上陸、石碑は今朝予喜多幅方より新庄局長へ電話せし故、又田上帰りて人を島へ遣はし、幕を以て囲はしめしが、其人々番せずに帰りし故、幕を開きあり、因て之を閉しむ、二時頃軽舸[?](水上警察の)にて中村部長、大江金兵衛刑事等三人斗りつきそひ友部知事来る、上陸して挨拶し、田上氏除幕、碑を見る、それより予と知事とならひ、その左右に毛利、田上等後に警官来客等ならひ写真とる、やや久く△ /[予記欄]△談して後ち、知事は白浜へ小児の遊戯を見にゆく、(神島へ来る前に京大臨海研究所の宴へ行し也)予は少く留まり碑を見、それより乗船して文里に着、上陸し自働車にて田上、毛利氏とつれ帰り、毛利氏、次に田上氏去る、それより入湯、夕松枝、文枝、下女、金崎夫妻、橋本旗郎氏の女及その女子、金崎氏一友等と蛍とりに稲成へ行、松枝、文枝、下女先帰る、十時也、次で金崎氏等帰りし様子、十一時過一同臥す、それより読書、三時十五分臥す /[左欄外]日高郡高城村役場員前度来りし人、今朝予出かける前又来り、パラガイ国で死にしウエダ某の診断書を訳解を求めらる /[上欄外] [ロシア文字若干あり]/〔発信〕夜十時十五分出 清積康則 ハ一『旅と伝説』六月特別号 九七頁に予の短文「刺なきイバラ」追加出づ /〔受信〕午前八時着 喜多幅武三郎 ハ一 三十一日出 本日より五日迄昼夜氏の宅にて栗山清太郎氏の画を                 展覧すと 政教社 活版 故草苅[刈]英治氏(海軍少佐)追悼会広告 清積康則 往復ハ一及ヒトツバタゴ標品一包 二十八日出 /[上欄外]朝鮮の郵便局員 平沼大三郎 状一 二十九日午後十時出 山田栄太郎 状一 三十一日出
備考3
掲載刊